代表者実績紹介
ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパ(1997~2012年)
時代を先読みした「高単価戦略」と緻密な「戦略的マーケティング」によって、再生不可能と言われたホテルを
再建、北海道洞爺湖サミットのメイン会場として復活させた。
<時期> <実績>
2012年
7月 ▶フランスの一流レストランに納入実績のあるMOF(フランス国家職人章)パン職人、フレデリック・
ラロスのベーカリー「ラロス(LALOS)」を誘致、日本初出店を果たす
4月 ▶ホテル内レストラン3店舗が「ミシュラン北海道2012特別版」においてミシュランの星を獲得。
1つのホテル内に存在する星の数では、フォーシーズンホテル香港と並び世界一となった。
宿泊部門としてホテル自体も最高ランクの「5」を獲得、北海道内のホテルで最も高い評価を得た。
尚、今回の3つ星の獲得者は、全員、ウィンザーホテル洞爺の元従業員及び関係者で独占し話題となり、
日本一高度な食文化の発信ホテルとしての地位を確立した。
2008年
7月 ▶北海道洞爺湖サミット開催。G8及びEUの全首脳が一つのホテルに滞在するのは、日本でのサミットの
歴史上初めての快挙となった。また、会期中の事故、事件は皆無であり、福田総理(当時)より感謝の意
を表された。
2007年
4月 ▶北海道洞爺湖サミットのメイン会場に指定される
▶客室単価が55,000円を超え、外資系ホテルを抑えて日本一となる
(運営再建前のADRは5,500円、運営受託後1年で48,000円を達成した)
2002年
6月 ▶国際的な高級ホテルコンソーシアムであるLHW(The Leading Hotels of the World)への加盟を
果たす。開業前の加盟は異例のことで、北海道で唯一の加盟ホテルとなった。
▶“門外不出”と言われた京都の老舗「美山荘」の初支店を誘致。この他、12に及ぶ料飲施設を導入し、
リゾートホテルとして最大の料飲施設を有するホテルとなった。
▶ザ・ウィンザーホテル洞爺 再開業を果たす
▶ホテルマン養成学校 ザ・ウィンザーホテルスクール開校
2001年 ▶ミシュラン3つ星「ミシェル・ブラス」の世界初の出店を誘致。イタリア料理全盛期であった当時の
日本にフランス料理ブームを復活させ、東京における3つ星レストラン開業ラッシュの先鞭をつけ、
第二次グルメブームの契機となった
1997年
1月 ▶「エイペックス洞爺」(当時) の再建を受託。ブランド再生のため、ホテル名を「ザ・ウィンザーホ
テル洞爺」へ改名。
▶移行期間については、オーナーのコスト負担を最小限に抑えるため、営業を継続させながら、ホテルが
生まれ変わる様子を顧客にあえて見せる手法を提案、ホテル業界初の「オープンキッチン方式再生法」を
確立。
長崎ハウステンボス内5つのホテル群の新規立上げ及び運営(1991~1996年)
「迎賓館」「ホテルヨーロッパ」「ホテルデンハーグ」「ホテルアムスデルダム」「フォレストヴィラ」という5つのホテルのコンセプトを共有しながら、ホテル毎に客層・価格設定に変化をつけ、かつ戦略的な従業員指導を徹底
することで客層と動員を両立させ、収益及び利益増を実現した。
<時期> <実績>
1995年 ▶「ホテルヨーロッパ」客室単価及び収益率日本一
「ホテルアムステルダム」は4位、「ホテルデンハーグ」は6位
▶ホテル部門において開業以来、4期連続営業増益を達成
1994年 ▶「ホテルヨーロッパ」客室単価及び収益率日本一
「ホテルアムステルダム」は2位、「ホテルデンハーグ」は6位
1993年
5月 ▶「ホテルヨーロッパ」が客室単価及び収益率日本一
「ホテルアムステルダム」は3位
▶コーネル大学ホテル経営学部と提携し、カイム教授 ( Prof. Kimes )を招聘し、「イールドマネージメ
ント」を業界に浸透させ、最新のマネジメントシステムの啓蒙を果たす
1992年 ▶「ホテルヨーロッパ」が国際最高級ホテルコンソーシアムLHWへの加盟を開業わずか8ヶ月目で認めら
れる(九州初の加盟認定)
▶「ホテルヨーロッパ」が客室単価及び収益率日本一達成
「ホテルアムステルダム」は5位
1991年
10月 ▶映画「ミンボーの女」(伊丹十三監督)の撮影を誘致
1月 ▶5ホテルのGrand General Manager(C.O.O.)として、運営及びブランドマーケティングを軌道に乗せる
ヒルトン東京ベイ(1989~1990年)
日本人として初のヘッドハンティングを受け、副総支配人として運営・営業強化に取り組む。外国人経営陣と日本人従業員間の円滑なコミュニケーションを実現し、従業員モチベーションの向上と企業戦略の浸透を促した。
<時期> <実績>
1990年 ▶窪山を題材とした、石ノ森章太郎氏の劇画「Hotel]のTBSドラマのロケを誘致、視聴率15%台、最高視
聴率25%の人気ドラマとなり、一般の人々の、ホテル業界についての関心を大いに高めた。
1989年
10月 ▶副総支配人として着任。外資系ホテルにヘッドハンティングで入社した初の日本人として報道される。
(日本経済新聞)
▶ブライダル部門実績を1年間で2倍に引き上げる
▶年間稼働率92% 単価42,000円/RMの成績は、ヒルトンインターナショナルの収益ランク世界トップ
クラスにランクされた
ホテルニューオータニ(1978~1989)
32歳で副総支配人に抜擢され、海外の不振ホテルの再建を達成。レストランにおけるメニュー開発から、施設設備などのエンジニアリング分野、従業員の年金制度の確立など、現場実務にも精通し、かつマネジメント視点を反映した点が高く評価され、それを契機として、三ツ星フレンチの誘致交渉やIMC誘致など、社長補佐として、数々の重要プロジェクトを手掛けた。
<時期> <実績>
1989年 ▶ホテルニューオータニ大阪営業部 戦略担当支配人着任
▶IMC(世界金融会議)大阪大会を同ホテルへ誘致。ロイヤルホテルを抜き、 大阪地区第一の高級
ホテルに認知され、金融誌「インスティテューショナルインベスター」にて、ホテルオークラ東京に次ぐ
世界ランク第21位の栄誉を与えられる
※上記の経緯が小説「ホテルウーマン」(山崎洋子作)の題材に取り上げられる
1985年 ▶東京本社コーポレートマーケティング統括支配人着任
▶同ホテル内に誘致された最高級フレンチレストラン「トゥールダルジャン」のマーケティングを担当
し、第一次グルメブームを起こす
▶人気漫画「ホテル」(石ノ森章太郎作)の登場人物“東堂マネージャー”の原作モデルとなる
1981年 ▶ホテルニューオータニロサンゼルス副総支配人着任、同ホテル内日本料理レストラン「千羽鶴」の再建
に着手、1年後に達成し、「ロサンゼルス・タイムズ紙」において、ロス最高峰の和食レストランとの
評価を受ける
1980年 ▶ホテルニューオータニカイマナビーチホテル副総支配人着任、同ホテルの経営を再建、開業以来の最高
利益を出す
ウォルドルフ・アストリア(1975~1978)
伝説のホテルマン フランクGワンガマン氏の直接指導を受けた唯一の日本人と言われ、最高級ホテルの神髄を
学び、その後のホテル哲学の形成に大きな影響を及ぼす。
同ホテルで経験した、品質管理と在庫管理システム、セールスシステムは、現在の日本のホテル運営レベルよりも
先進的であり、後年、窪山が手掛けるプロジェクトにおいて活用された。
<時期> <実績>
1977年 ▶ニューヨークの大停電が発生。同日は、総支配人のアシスタントとして、陣頭指揮
▶同ホテルに居住していた、マッカーサー元帥の夫人ジーン・マッカーサーの接遇担当となり、文化に
対する視点を学ぶ
▶世界的な歌手フランク・シナトラとの交流で、付加価値マーケティングの神髄を学ぶ
1975年
6月 ▶ヒルトンホテルズ コーポレーション 入社(本社 シカゴ)、ウォルドルフ・アストリアホテル
(ニューヨーク)配属。Assistant to the General Manager、Assistant Director of Banquet Sales
として着任。
10月 ▶昭和天皇訪米時では接遇担当を務め、入江相政侍従長の薫陶を受ける。
▶日本及び欧州からの特別VIPの接遇及び、営業マーケティングを担当。